2012年6月 川北ゆう個展「はるか遠くのつぶ」展について 主客の別、乗り越える絵画 福元崇志(国立国際美術館学芸課研究補佐員/-阪大美学研究室-) 都・祇園四条の円山公園。その一角に建つギャラリー「eN arts」(エンアーツ)にて、 川北ゆうの個展が開催されている。展示室に入り、壁にかかる作品群を見て回る。 作品に描かれているのはいずれも、一言で、「これ」と名指しする事の出来ない何かである。 皺の寄った紙や布を思わせる絵、たゆたう糸や髪の毛を思わせる絵。 また、ギャラリー地下には、水たまりや染みを思わせる絵も展示されている。 だが、これら「~のようにみえる」イメージが結局何であるのかが判然としない。 各作品の制作年月日がそのままタイトルとして採用され、 内容に関する情報が切り詰められている事も、この事態に拍車をかけているのだろう。   川北の提示するイメージは、鑑賞者が思い思いに解釈する余地を多分に残している。 それを解釈の「開かれ」と呼び、その自由を称揚するのはたやすい。 しかし、描くという行為に対する川北の態度に注目するとき、作品に対する印象は一変する。 川北は作者でありながら、作品の最終的な在り方を決定する権利を半ば放棄している。 彼女は、水を用いて絵を描く。絵具を浮かべ揺らぐ水が、やがて蒸発し、 その最後の状態を支持体に定着させる、というわけだ。 水の動きを制御しようとしても、最後まで完璧に制御できるものではない。 この制御不能な描画手段との格闘の末、彼女は、水のゆらぎという現象そのものの痕跡を 作品として提示するにいたる。それはいかなる解釈をも許容しうる抽象的な装いに反して、具体的である。   一義的な具象でも、多義的な抽象でもない、自然現象そのものとしての絵画。 それは、自然を描くのではなく、支持体の上に現出させることによって果たされる。 描くという行為は、自然を、「画家が見た」自然へと対象化する。 一定の距離をおいて観察された自然は描くべき部分と描かざるべき部分とに分けられ、 結果、それが本来備えているはずの豊かな細部は失われてしまう。 この、主体と客体の分離にもとづくある種の暴力に対抗するには、対象化される以前に「在る」自然を、 そのまま絵画平面上に定着させればよい。ニュアンスを湛え流れる青や緑の幽玄な線は、 描く事の出来ない「在る」がままの自然の姿を映し出している。   そもそも、「はるか遠くのつぶ」という今回の個展のタイトルがすでに示唆的である。 近くであれば認識できるのに、遠くからは見えない粒、細部。 しかし、遠近を問わず等しく存在する細部をなんとか捉えようとする姿勢が、ここからは読みとれる。 そうした奮闘の末に立ち現れる水のゆらぎそれ自体としての絵画は、 具象でも抽象でもなく、また主客の別でもない。 それは、絵画をめぐる様々な二分法を乗り越える端緒を切り開いている。